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現代の資本主義について学びました [組合活動]

「ボルタンスキー/エスケレールの富裕経済(enriched economy)と
               それに対するナンシーフレイザーの応答について」


1、ボルタンスキー/エスケールの「enrichment economy(富裕経済)
 ボルタンスキー/エスケールは、ここ数十年の資本主義の変化について、①脱産業化 ②まだ名前がついていない発展という二つの特徴を指摘し、後者についてモノの世界(the wolid of objects) に注目して明らかにすると同時に、両者の関係を明らかにすることを試みている。
 その特徴の具体的な例として、高級品(luxury)をとそれを取り扱う高級品産業(luxury industry)が取り上げられる。高級品は例外的なモノ(exceptional object)、特別な製品なわけであるが、それは例えば高級なブランドであること、「ホンモノであること」、著名人が関わることによって、そのようなものになる。高級品産業はモノを生産することをやめて、ブランド部門に特化することで収益率を高めている。また、ビジネスを学ぶ学校に対し現代アートの講座を開くような要望も出てきている。
 特別な製品という概念に隣接するものとして、文化遺産の創造ということがある。これは、建物やモニュメント、また一地方全体へのブランドであり、保護政策の対象になったりするが、それに付随するものとして、土地価格の上昇や観光産業の振興にも資することになる。
 脱産業化と「例外的なモノ」への需要の高まりや文化遺産への熱中との関係についてであるが、この問題について、ボルタンスキー/エスケールは、富の生産という観点から論じられている。つまり、モノ(objects)に焦点を当てて、それらにどのようにして価値が付与され、モノ自身に富裕性(enrichment)のステータスが与えられるかについて検討している。富裕化されたモノ(enrichment object)という社会的な論理は、工業世界のそれとは違い、その限りにおいて二つの経済の理念形を描くことができる。つまり、富裕経済(enrichment economy)と工業経済(industrial economy)である。このような文脈においては、富裕化する(enrichment)というのは、個人の財産が増えるのではなく、モノの価値が豊かになるということを意味し、モノの差異と同一性を作り出して、体裁を整えることが富裕経済の根本的な資源になる。
 富裕経済における価値の生産の様式(form)は次の3つである。①標準的様式(standard form of value) ②コレクション的様式(collection form of value) ③資産的様式(asset form of value)。そして、それぞれの様式においてモノ(objects)は差異と時間という軸を元にして、その価値がはかられることになる。
 これらの様式は個別に存在しているわけではなく、互いに連関を持っている。つまり標準的様式は大量生産・大量消費の工業製品であるが、そこで生産されたモノはコレクションの対象になることもあり、それが資本の構成要素となるならば資産的価値をも持つことになるといったように。また、コレクションが経済的価値が派生し、富を得る手段となるならば資産的な価値も持つようになる。③の資産的様式は価値が金額で表現される様式であり、モノの属性は価格のみとなり、資本を蓄積するための機会を提供するために入手される。
 上記の3つのうち、富裕経済の発達に最も影響するのはコレクション的様式である。コレクション的様式は「富裕化したモノ(enriched objects)」の価値を確定させる際に、重要な役割を果たすものである。この様式の目立った特徴は、過去を志向しているというものであり、古いものが価値がある。そのため、製造コストではなく、保存することにコストがかかることになる。コレクション的様式によって価値が確立されるものは、アンティーク品に限らず、「限定品」や現代アート作品、文化遺産もある。また、コレクション的様式のモノの価値は、批評家やキューレーター歴史家が評価するもので、それらの人たちの労働は、モノの価値自体を生み出すわけではない。標準的な様式であるならば工場労働と価値の形成は結びついているが、コレクション的様式になると、価値の形成とそれを生み出す労働は分離される。
 富裕経済においては労働者と生産手段を持つ者との間の対立が存在し、標準的様式にはこの従来の階級的対立の図式が当てはまる。しかし、富裕経済になると、知的所有権保持者とその他大勢(様々な産業部門、活動、雇用形態)という形になり、従来の階級対立の図式が成り立たなくなる。また、コレクション的様式の場合や資産的様式の場合にはモノの価値を決める人は、そのモノの評価から得られる利潤と直接関係ある位置には無い。
 富裕経済は工業経済に比べ不平等の度合いが少ないということは無く、労働過程を通じた搾取は様々な形があり得る。また、労働現場は公的・私的領域にわたり、仕事をするというよりも「欲望」や「熱意」を発揮するという形になりやすい。また、雇用形態も正規雇用と非正規のプレカリアートが混在している。この情勢は新たな社会や政治勢力が富の不平等に挑むだけの力もなく、価値の決定の編成をより平等主義的な形に持ってくるだけの力もない。

2、ナンシー・フレイザーの応答
(1)価値について
 ボルタンスキー/エスケールの前掲の論文について、「価値」(Value)について扱っており、それを本質としつつも、マルクスの労働価値説や新古典派的な価値=価格とするものとも違っており、価格を正当化し、また批判しもするという性格を持っている。
 彼らの価値の使い方はそれぞれの先に挙げた3つの様式に対応させる使い方をしているが、これはマルクスが利潤、利子、地代の三位一体図式と呼んだもののうち、産業/利潤、金融/利子の2者は合致する。しかし、富裕化については判然とはしない。もし、価値が地理的優位性や、知的財産権、独占地代に関連付けることができるならば、マルクスが先導した議論に続くことができ、資本主義社会をより広い概念の中で捉えることができるし、産業的な利潤や金融利子、富裕化について機能的な重なりを理論化できることになるものの、彼らは資本主義経済を「区分け」することの方に関心を向けてしまっている。

(2)富裕化について
 筆者は富裕経済における価値設定について決定的となる労働について明らかにしようとしている。それは富裕経済においては、投資家が不動産の価格を吊り上げるように、コレクターが専門家を自分たちに有利に動くように巻き込んだり、また、富裕化経済における価値の設定は神秘化されてしまうことから、批評は脱神秘化をするということになる。
 だがそれが、資本主義社会を変化させるような希望を持つ広範囲の闘いの可能性を提示しえないし。富裕経済が搾取の経済ではあるけれども、工業的なそれほどはっきりしたものではないし、関わっている人が多岐にわたりすぎ、分散されたままで、搾取者と同一化してしまったり、アートの世界に幻惑され、その威信にやられてしまっている人たちもある。
 結局のところボルタンスキー/エスケールの資本主義分析は、包括的なものではないし、本当に富裕経済が支配的であるかは疑問である。現代資本主義の支配的セクターは金融であると思われるが、彼らはそれを軽んじすぎている。価値の資産的様式は、金融がどのような役割を果たすかについての理解を与えてくれはするものの、富裕経済はより広い文脈の中で考えられ、その成長を位置づけられるべきであり、そのような批判こそ社会変革の可能性を明らかにすることができる。


2017.11.12学習会1.JPG

学んだ後は、食うしかない。


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『労働者階級の反乱 地べたから見た英国EU離脱』 [本や映画などの紹介]

光文社のHPからまんま貼り付けました。すみません。

とうとう新書まで出してしまったようですが、素晴らしい、えらいなあ。
ぜひ、読みたい本です。
フリーターユニオンに関心ある人もない人も(笑)必読の著書。




労働者階級の反乱 地べたから見た英国EU離脱 ブレイディみかこ/著

全世界を驚かせた2016年6月の英国国民投票でのEU離脱派の勝利。海外では「下層に広がった醜い排外主義の現れ」とする報道が多かったが、英国国内では「1945年以来のピープル(労働者階級)の革命」と評す向きも多かった。世界で最初に産業革命を経験し、最初に労働運動が始まった国イギリス。そこでは労働者たちこそが民主主義を守ってきた。ブレグジットは、グローバル主義と緊縮財政により社会のアウトサイダーにされつつある彼らが投じた怒りの礫だったのだ――。
英国在住、「地べたからのリポート」を得意とするライター兼保育士が、労働者階級のど真ん中から、「いつまでも黙って我慢しない」彼らの現状とそのスピリットの源流を、生の声を交えながら伝える。

目次

まえがき

第I部 地べたから見たブレグジットの「その後」
(1)ブレグジットとトランプ現象は本当に似ていたのか
(2)いま人々は、国民投票の結果を後悔しているのか
(3)労働者たちが離脱を選んだ動機と労働党の復活はつながっている
(4)排外主義を打破する政治
(5)ミクロレベルでの考察――離脱派家庭と残留派家庭はいま

第II部 労働者階級とはどんな人たちなのか
(1)40年後の『ハマータウンの野郎ども』
(2)「ニュー・マイノリティ」の背景と政治意識

第III部 英国労働者階級の100年――歴史の中に現在(いま)が見える
(1)叛逆のはじまり(1910年―1939年)
(2)1945年のスピリット(1939年―1951年)
(3)ワーキングクラス・ヒーローの時代(1951年―1969年)
(4)受難と解体の時代(1970年―1990年)
(5)ブロークン・ブリテンと大緊縮時代(1990年―2017年)

あとがき

著者紹介

ブレイディみかこ
1965年福岡市生まれ。保育士・ライター・コラムニスト。96年から英国ブライトン在住。著書に『花の命はノー・フューチャー』(ちくま文庫)、『アナキズム・イン・ザ・UK――壊れた英国とパンク保育士奮闘記』『ザ・レフト――UK左翼セレブ列伝』『いまモリッシーを聴くということ』(以上、Pヴァイン)、『ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート』(岩波書店)、『THIS IS JAPAN――英国保育士が見た日本』(太田出版)、『子どもたちの階級闘争――ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、2017年・第16回新潮ドキュメント賞受賞)、共著に『保育園を呼ぶ声が聞こえる』(太田出版)がある。

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非常勤自殺賠償訴訟 北九州市が争う姿勢 [ニュース記事など]

下記は提訴の記事であるが、先日10月13日に福岡地裁で初公判が開かれている事件。
すでに「自殺」から2年であるが、これから闘いが開始すると思うと、本当に残念というか事態の重さを思わざるを得ない。
非常勤いわゆる嘱託職員で正規職員以上に働いている職員はたくさんいるのだ。ますはそこからだと思うが。

・・・・・・・・・



非常勤自殺「パワハラ原因」 遺族が北九州市を 認定門前払いで

毎日新聞2017年8月30日 西部朝刊

 2015年5月に自殺した北九州市の非常勤職員・森下佳奈さん(当時27歳)の両親が29日、自殺の原因は上司のパワハラなのに、非常勤を理由に公務災害の認定請求を認められず精神的損害を受けたとし、市に慰謝料など計160万円の損害賠償を求めて福岡地裁に提訴した。市条例は非常勤職員本人や遺族による公務災害の認定請求を規定しておらず、遺族は「非常勤だからと、門前払いはおかしい」と訴えている。【平川昌範】


 訴状によると、森下さんは12年4月から市の非常勤職員に採用され、戸畑区役所の子ども・家庭相談コーナーの相談員として勤務し始めた。しかし上司の叱責や業務量の負担増などから13年1月ごろにうつ病となり、15年5月に自殺した。両親が16年8月、公務災害の遺族補償手続きを市に問い合わせたところ、「本人や遺族による請求は認められていない」と回答された。

 両親側は「本人や遺族の請求権を認めない条例は無効。公務災害かどうかの判断を受ける期待権を不当に侵害された」と主張。同時に、市を相手に労働基準法に基づく遺族補償など約1209万円の損害賠償を求める訴訟も起こした。

 提訴後に記者会見した母真由美さん(55)は「娘は常勤の方と同様に働いていたのに、請求の受け付けさえしてくれず、悔しい。非常勤の方々が苦しまないよう制度を改善してほしい」と訴えた。

 市は「条例は国が示したひな型に基づき定めた。市の調査で上司のパワハラは認められなかったため、公務災害かどうかを判断する必要もない」と説明。提訴については「訴状が届いておらず、コメントは差し控えたい」としている。

自治体でばらつき

 非常勤職員の公務災害に関する各自治体の条例は、旧自治省(現総務省)が1967年に示したひな型が基になっている。ただ、ひな型では職員本人や遺族の請求権は規定していないが、実際は各自治体によって対応が分かれている。

 北九州市と同様に、宮崎、佐賀両市は本人や遺族による請求を認めていない。宮崎市は「ひな型通りの条例なので、本人や遺族は請求できない」と説明。その上で北九州市の件を踏まえ「請求にどう対応するか、今後検討したい」とする。

 一方、京都市は条例の施行規則で遺族らによる請求ができると規定し、「常勤職員との均衡を保つためには遺族らによる請求を認める必要がある」と語る。同じく請求を認める福岡市は「遺族と市との間で見解の相違があっても、門前払いはしない」とする。

 総務省は「非常勤職員の公務災害は、現場を把握する職場が補償するかどうかを判断すべきなので、ひな型には盛り込んでいない。各自治体が実情に応じて対応してほしい」としている。

 森下さんの両親の代理人の佃祐世(さちよ)弁護士は「社会状況は変わり非常勤職員は増えているのに条例は50年も放置されている。不服の申し立てさえできないのはおかしい」と訴えている。【平川昌範】
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フリーター労組運動の10年 [ニュース記事など]


フリーター労組運動の10年 「この世界」から「別の世界」へ

人民新聞1610号, 貧困・労働・いきづらさ2017年3月24日


数センチ先、まだ見出されない方向に

フリーター全般労働組合 山口 素明

2000年代後半、「派遣切り」などが社会問題化し、フリーターの労働組合が全国で結成された。「生きさせろ!」「プレカリアート」「反貧困」を掲げて集会やデモも多数行われた。あれから10年。社会状況が悪化する中でも運動は続いている。同運動の草分け的存在である「フリーター全般労組」の山口さんに、運動は何を成し遂げ、何が課題か、を寄稿してもらった。(編集部)




 この世界には並行して「別の世界」が重ね置かれている。朝礼で押し殺すあくびと舌打ち、「っらっしゃいませ」と「ありあとやした」の声の乾き、出勤の群れが馴致できない無意識の命ずるサボタージュ。学校化された「この世界」の数センチ向こうにある「別の世界」に誰もが気づいている。
 それがフリーターの「世界」。役回りを演じることより自身の力を信じること、能力で人を並べ、その有無を問うのではなく人の尊厳を重んじること、蔑みよりもつながりに信を置くこと、資本の増殖にではなく私とあなたと彼/彼女らの幸福のため自らに潜在する力を用いること。労働の道徳ではなく人の倫理を生きる「世界」はすでにそこにある。
 つまり、「フリーター労組」は「この世界」の組織、まして特定の労働組合の名称などではない。それは「この世界」が「あの世界」に触れて生まれる火花だ。だから「フリーター労組」はいまこの瞬間にも各地で生起している。金持ちが大切に思うことに毒されず距離を置き、札ビラで顔をはたかれれば掠め取る。「能力」を服従の契機とせず連帯と逃走に用い、搾取と侮蔑にやり返す、パンと薔薇の引き換えを拒み、パンと薔薇すなわち「自由と生存」のいずれをも求める人の営為がその名に値する。首都圏で活動する私たち「フリーター全般労働組合」は、その発火点のひとつであろうとしている。労働道徳の再生産と能力選別による服従から遠ざかり、自治と自律において生じる無数の火花のひとつに。

「世界」を広げる2つの戦略

 そもそも始まりからそうだ。2004年8月に法政大学で活動していた無党派学生を中心に結成された労組準備会は、「まっとうな労働者」とはみなされていなかった者たち、「パート、アルバイト、外国人、フリーター」を結びつけるネットワークを構想した。ほぼ同時期に京都や福岡で生じた運動に刺激を受けながら、労働組合としての「フリーター全般労働組合」は、これらの人々が展開するさまざまな動きの結節点と位置づけていた。
 先行する地域合同労組の運動があった。特定企業内で組織される労務管理型の労働組合と一線を画し、地域争議団の共闘で「世界」を押し広げようとする戦略、個別労使紛争を梃子に集団的労使関係を形成し、「世界」を企業内に形成しようとする戦略。大きく分ければこの2つに集約される運動である。私たちも2006年6月以降、この2つの戦略を土台に取り組みを続けてきた。週40時間、無期という典型的雇用契約からはみ出したいわゆる非正規(非典型)雇用労働者が直面する解雇やパワハラ、未払いの問題の解決をサポートする組織体としての形式は、このころ備えられていった。
 だが地域合同労組をいわばプラットフォームとして活用した「フリーター全般労働組合」の取り組みは、その活用が否応なく求める運動の形式や発想との緊張に向き合うことになった。プラットフォームから抜け出る動きと、そこに立ち戻る動き。この2つに引き裂かれながら活動してきたのがこの10年だ。
 たとえば2005年からフリーター労組が呼び掛け開催されてきた「自由と生存のメーデー」は、労働問題の焦点化よりもそれ以外の論点、強く反戦運動などの社会的課題を取り上げることを課題としている。その過程で2008年10月に弾圧された「麻生邸リアリティツアー」の取り組み、同じく2009年4月に弾圧された在特会デモへのカウンター活動もあった。労働者運動が直面するメンタルヘルスや生活保護問題への取り組みもそうだ。
 私たちの組合では、これらの問題は労働組合活動の周辺に生じる問題ではない。生存問題に関心を深める組合員は月例の「生存部会」を形成し、新自由主義と労働社会への批判的討議を継続している。私たちは、むしろ積極的に自らを「労働と生存のための組合」と規定したのである。

組合で闘い方を獲得した人々が先へ進むプラットフォームへ

 一方で、合同労組運動への回帰圧力はいくつかの分裂をもたらした。ひとつは、労働組合を事業化する動きとの分裂である。フリーター全般労働組合が志向する自治・自律による連帯の形成は、キレイごとで進むものではない。争議の方針、差別問題など路線上の対立だけではない。功名心や嫉妬心、猜疑心などから生じる人格的な対立まで数々の問題が生じる。このひとつひとつに私たちはそれなりに真剣に向き合っている。
 その結果、組織の運営は「収益性」の観点からは非効率になる。ひとつひとつの事件の解決に、そもそも事件として取り上げるまでに、議論と時間を要することになるからだ。
 ひとつ例をあげる。とある清掃会社からの十数名の加入に、組合員から異議が出されたことがあった。曰く、かつて彼らのいじめによって自身が退職に追い込まれた、というものだ。当時の執行委員会はこの異議を取り上げ議論し、提起されたいじめ事件について対話が開始されるまで当組合への加入承認を保留すること、承認までの間、彼らが当組合の外で別途組合組織を作るよう支援すること、の2点を結論した。
 だがこの決定は、一部の人々から激しい攻撃の的になった。この判断は、加入申請してきた人々の問題解決を妨げるというのである。この攻撃の背景には、労働組合を事業として見る視点がある。だがそれも無理はない。多くの合同労組は、専従者を軸にした組織形成の果てにそのような性質を担わされているからだ。ときに専従者が100件近くの「案件を担当」して組合員が直面した問題の「解決」を図る。だがそのような組織では、専従者の活動を組合員がボランタリーに支えることが労働組合員の役割になる。つまり、組合員は労働運動に参加するのではなく、専従者を支える活動に参加することで専従者が提供するサービスを消費する者となるしかなくなる。彼らの批判は、サービス提供が不十分となるという批判だったのだ。
 実はこの組織形態は、とても理解しやすい。「この世界」で出会う組織のほとんどは、そのような形態でしかないからだ。企業がそうだし、NPOの活動も、ともすれば運動体のほとんどがそれを免れることができない。だがそれ故に、そのような組織は「この世界」にとどまる他はない。私たちが接触を求める「あの世界」との接点を限りなく遠ざけてしまう。だが「この世界」で事業を成功させたい人物はどこにでもいるもので、この事件を契機にそのような人々は組合を去っていった。
 ふたつめの分裂は、さらに深刻だ。労働組合の「この世界」での運動は、それなりの勝利を手にすることができる運動だ。いつも敗北し続けの政治運動や市民運動とは異なり、闘争と妥協と取引とによって得られる「解決」には一定の勝利がある。しかし、それはあたりまえのことだが完全の勝利ではない。部分的にパワハラをやめさせ、未払いを支払わせ、解雇を撤回させ、経営者の謝罪をかちとるだけだ。その勝利は灰色の「この世界」を変えることはない。
 しかも貧困者にとって、その道はとても険しい。私たちのような労働組合の活動に参加すれば、だいたい多くの場合、生活との両立に困難が生じる。「組合の取り組みで飯を食わないこと」を決意して活動を続けるのである。多くの合同労組のように中心的な活動家を専従させることで明確な役割分担を行い、サービス提供者と消費者との疑似的な関係を作り上げることをしない。それを拒否して自身がサービスの生産者であり消費者であるような組織を作り出そう、というのだ。そんなうまい話はあるのか、ということである。
 もちろん厳しい話ばかりではない。私たちは可能性を感じている。2009年のキャバクラユニオン結成以降、私たちの活動は、水商売の争議事件の取り組みに大きく傾斜している。成果主義、能力主義の最前線のような領域で踏ん張る人々が、いまや私たちの組合に参加する人々の9割を占めるのである。そしてときおり「いまみんなで店長を詰めているんですけど、どうしたらいいですか?」と電話がかかってくる。逃げた経営者の情報が匿名でもたらされる。
 昨年、9月に開催した大会で新しい役員体制が成立した。当組合の共同代表は3名。大学経験者は代表からいなくなった。加えて3名すべてキャバクラでの就労経験を持つ組合員である。私たちはもはや遠く「フリーター労組」の火花を夢想する位置にはいない。自身の生活と尊厳を獲得する人々の連帯の火花に手の届く場所にいる。
 合同労組運動をプラットフォームとして自己形成してきたフリーター全般労働組合は、いまも「一人でも入れる労働組合」だ。だが、いつまでもそこにとどまるわけにはいかない。組合を通じて闘い方、闘うことへの期待を獲得した人々が、さらにその先に進んでいくプラットフォームに自身を形成しなおす時期に来ている。フリーター全般労働組合は「一人でも出ていける労働組合」というのは、あまりうまい言い方ではないから考え直すが、少なくともあと数センチ、いまだ見出されてはいない方向へと進むことは確かだ。




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通信誌№32発行しました [組合活動]

2017年10月8日付でフリーターユニオン福岡の通信誌№32を発行しました。

購読者のみなさんのお手元には今日明日中に届くかと思います。
今回のテーマは、前回に引き続き、「働き方を問い直す」です。

『マルクス経済学と現代資本主義』桜井書店発行2015.7.1
このなかの第18章、森岡孝一さんの「日本資本主義分析と労働時間」という論稿を参照して、労働時間についてさらに学習を深め、それぞれの働き方を見直すことで書いてみました。

関心のあるかたは、通信をお送りしますのでご連絡ください。

新しい争議案件についての報告、「新月灯花」ライブの報告などもあります。

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